1/2成人式

 

7/19放送のミュージックステーションのおいで、Sunshineを、壊れてしまったみたいに何度も何度も見てしまいます。

YouTubeでも、少クラでもなくて、ミュージックステーション。茶髪ですっとんとんの涼さんでもなくて、黒髪で剃りこみを入れている涼さんでもなくて、金髪でにこにこの涼さん。ぐるぐると巻き戻しては楽しそうにわらう顔に胸がぎゅうってなって、ああやっぱり笑顔を好きになったな、と思います。「笑顔が特別好き」。この1年何度も反芻してきた気持ちを、だいじにだいじににそおっと取り出して眺めてしまうのです。

 

これをいとしく思ってしまってはよくないのかもしれませんが、わたしは涼さんのわかりやすいところがとってもとってもすきで、かわいいなあって思っています。わたしの主観でしかないですが、涼さんはたのしいときはたのしい!って顔をするのです。笑っているようで笑っていない時はすぐにわかる気がします。アイドルも生身の人間ですしその時精神状況や体調によって全力でパフォーマンスできない日というのもあって当然と思いますが、涼さんは人一倍それが見えやすいと思っていて、元気がない日は本当にしゅん……として見えるのです。たのしくない!って顔をするし、たのしくない!って態度をとります。はいちゅ〜ぶのマラソンコース第1回とか本当に露骨で、口ではよかったとかなんとか言っていますが顔がぜんぜん伴っていません。最近で言うと、6月の少クラとか本当にたのしくなさそうです(笑)そういうところがもう本当にいとしくっていとしくって抱きしめたくなっちゃうのですが、でも涼さんはわたしにとってだいすきでだいじな人なので、あんまり元気がない様子だと心配になってしまいます。ああこのままアイドル嫌になっちゃわないかなって、ふと過ぎるくらい、そのくらいには涼さんは感情に波があるのがわかりやすいし、それが表情の高低差となってあらわれるように思います。

だから、という言葉を使うのが正解かはわかりませんが、わたしは涼さんがたのしそうにしてくれていることが本当に本当にうれしくって、わたしもたのしくってしかたなくなってしまいます。この人のこと本当に本当に好きだなあと思うのはたいていそういうときです。アイドル楽しいんだな、楽しいと思っていてくれそうな顔してくれているなと思うとき、たまらない気持ちになります。Mステのおいで、 Sunshineの涼さんを見ていてそういう気持ちを感じるし、音楽の日の涼さんを見ていてもそういう気持ちを感じます。

 

アイドル10歳だからといって涼さんがアイドルを辞めないとは限らないし、ステージに立つことが嫌になって放り出さないとも限りません。涼さんは本気でジャニーズを、アイドルを辞めたいと思ったら、きっと辞める人だと思っています。わたしにとって涼さんはたいせつでかけがえのない人ですが、その逆、わたしが涼さんの大切な人かと言われたらむずかしくて、ファンという広義の意味で捉えればもしかすると成り立つことなのかもしれませんが、わたし個人として彼にとってのその存在になることなんて今までもこれからもありません。彼の人生にわたしがかけがえのないものを直接的に与えられるというわけではないので、涼さんがその決断をした時わたしはアイドルを辞めないで、と惜しむこと、それしかできません。

それでいいな、と思います。それがいいな、とも。

わたしは涼さんがアイドルだったからすきになったし、アイドルをたのしいと表情で伝えてくれたからこんなにすきになってしまいました。

 

アイドルを10年も続けてきてくれたことは、「辞めない」と「続ける」との掛け合いで出来上がっている事実で、10年前の夏のある日、いつなのかは定かではないですが、9歳の少年が下した決断と運命が噛み合って10年後の今日があるということを決して忘れたくはないなと思います。わたしが涼さんのことを好きだなあと思い続けているのはたったの1年かそこらですが、その1年間を褪せないで「好き」という気持ちで彩ることができたのは、間違いなく涼さんがアイドルになりたいと思ってくれたこと、アイドルを続けたいと思ってくれたこと、アイドルが楽しいと思ってくれたことか根底に静々と流れているからで、定かではない入所日をいとしいなと思うことで「ありがとう」の気持ちに代えられたら、と思います。

涼さんがジャニーズ事務所に入所した日は、涼さんにとってはおめでとうの日だけど、わたしにとってはありがとうの日で、そういう気持ちを感じていられるのは、アイドルを好きになったからこそだなと、わたしはその文化がだいすきだと改めて思います。

 

なんかいつも以上にうまくかけないけど、今日も涼さんがだいすきで、涼さんが望む未来をわたしも見られたらいいなと思う、7月下旬の今日です。

 

 

わたしもひと夏じゃいやだし、四季折々涼さんとHiHi Jetsといたいし、運命の春も宿命の夏も、秋も冬も、だいすきでいたいね。

きみにこの歌を

このエントリを読んでくれている人がいるとして、その人にわたしがいまから話すことを聞いてほしいと思って書いているわけではなく、
ただわたしはこの感情をどこかに書き留めておかないと、体内でぐるぐると渦をまいて停滞しているままでは、感情の死に際に立ち会えない。それだけのことです。


担当じゃない人間がこの話をするのは、と少し悩みましたが、わたしにとって彼はすごく大事な人だったから、今も大事な人だから、書かせてほしい。書きます。

 

 


担当、という定義は、わたしのなかでまだ曖昧にグラデーションを描いたままですが、なんとなく心に決めた人、という概念のもと、ここ3年くらいはぬるくオタクをしています。
その「心に決めた」と思う人以外にも、どうしようもなくわたしのこころが握りしめられてしまう人というのが時折いて、それがわたしにとってのはやしまとりさんというアイドルだったように思います。

 


どんな人だったか、なんてひとつもわかりません。知り合いでもない。友達でもない。両親や親戚でもない。そして単純なファンとアイドルという関係からもなんとなくふわりと外れていた気もしないでもない。まとりくんは、わたしの自担じゃない。


じゃあなんだったのか。そう問われたら、
まとりくんはただ、わたしの特別な人の特別な人だったように思います。それはきっと今もその限りで、彼がそうならわたしもそうなんて、図々しい言い訳を1ヶ月経ってもたれながしてしまいます。
わたしの特別な人、つまりすえざわせいやさんというアイドルなのですが、少なくともわたしが知る限りは、その人の隣には結構な確率でまとりくんがいたように思います。


まとりくんとすえざわくんは仲が良いのですが、それだから好きというわけではなかったんだと思います。
媚びない信頼関係と、切磋琢磨しお互いを鼓舞し合う競うようにそびえたそのアイドル魂、そしてふたりがそろったときの無双感。たまらなくだいすきでした。

 


すえざわくんにとって特別な人だ、と一目見ただけでわかって、それはつまりわたしにとっての特別な人だということを示すことを、脳が勝手に受け取っていました。
いつからかわからないけど、すえざわくんのとなりにはまとりくんがいてほしいと願うようになりました。

 


まとりくんはいつも欲しい言葉をくれたし、わたしがどうしても後ろ向きになりそうなときでも、まとりくんは後ろを向いていないよ、僕を信じてと手を差し伸べてくれました。
仲間が暗闇に迷ったら手を引いてすくいあげるようなひとな気がしていました。


まとりくんは、少し天然だけれど、人一倍やさしくて、機微を察知することのできる、アイドルセンスに優れたひとだったとわたしは思っています。

 

 


自担だったわけじゃないから、まとりくんのことを正々堂々好きだったと言っていいのかわかりません。でも、
過去形にするのがいやなくらい、そのくらいまとりくんはわたしにとってだいすきでたまらないアイドルだった。


まとりくんはいつも笑顔だった。前しか向いてなくて 
暗闇の中をさまよっていたわたしをこっちへおいでとひかりでつつんでくれるような


わたしにとって大事な人でした。


大事な、大事な、アイドルだった。

 

 

 


ねえ、まとりくん。

 


まとりくんが、
悲しいって思わないでって
寂しいって思ってねって
そう言うから、今日までずっとね、寂しいって言ってきたよ。かなしいって 言わないようにしてきたよ。

 


でもやっぱりわたしかなしいよ。まとりくんがいないステージを見るのはつらいよ。
まとりくんがいなくても、すえざわくんには新しい仲間ができたけれど、
わたしは、わたしは、すえざわくんのとなりにはまとりくんがいてほしいよ。


まとりくんの青色だけ、失っちゃったみたいにせかいがくらい。


いやだ。いやだよ、まとりくん。
わたし、もっともっとまとりくんがステージに立つ姿が見たかったよ。まとりくんの歌声が聞きたかった。まとりくんの笑顔が見たかった。もっと、もっと。
わたし、欲張りだからまだ足りないよ。どうしたらいいの。


まとりくんと、この先の景色もっと見たかった。まとりくんのことも応援してるよって 
もっと伝えたかったよ。まとりくん。まとりくん。


まとりくん。


だいすきだった。
ちがう


いまもだいすきだよ。だいすき。


だいすきなのになあ。
最後まで優しくて、心配かけまいとしてくれて、きっと迷いも不安もあるだろうに楽しみって言ってくれるまとりくん。


最後までやさしくて、最後までバッチリアイドルなのは、ずるいよ。

 


わたしね、
アイドルのはやしまとりくんのこと、ずっとずっと信じてここまで来たよ。
アイドルのまとりくんのこと、ずっと信じてたよ。だいすきだよ。


毎日ね、どうしたらいいかわからなくて、
何回もまとりくんとすえざわくんが続けて歌うパートをノイローゼみたいに見てるよ。


後ろ向いてばかりでごめんなさい。まとりくんはそんなの嫌かな。
でもね、まとりくんは、わたしをすくってくれるわたしにとって唯一無二のアイドルだったから、そう簡単に切り替えられないよ。

 

わたし、関西の泣いてお察しの文化好きじゃないよ。好きじゃないけど、わたしのすきなまとりくんだってみんなに泣いて見送ってほしかったし、わたしも泣いて見送りたかった。さよならしたかった。まとりくんのための涙を流してほしかった。 

なんでまとりくんはアイドルとしてさよならしてもらえなかったのかな。なんで?みんなはこれからも会えるから?ちがうよ。わたしたちはもう会えないよ。ステージでアイドルするまとりくんには会えないんだよ。

まとくんのためにも泣いてよって思った。まとくんありがとうって はなれたくないよって泣いてほしかったよ。泣きたかった。もっとちゃんと、用意された場で。

 

そういう気持ちを救ってくれたのがAぇの単独千秋楽の日のすえざわくんの挨拶だったのかなって少し思います。


アイドルとして幸せにしてあげたかった、って思うけど、
まとりくんはそんなこと言ったらじゅうぶんしあわせだったよって笑ってくれるような気がしちゃうの。
都合のいい妄想かなあ。

 

 


このさきもまだまだ、ぜったいに引きずってしまうけど、この世の誰もがまとりくんがアイドルであったことをわすれたって、わたしは覚えているから。
まとりくんがくれたキラキラの時間ときもち、ぜったいにわすれないよ。

 


はやしまとりくん。
だいすきです。アイドルお疲れ様でした。


今はまだもう少し、 わたしに時間をください。

ファンキー旅行記 第8版

理由も形もなんでもいい。行っておいでとか、がんばってとか、そう言って背中を押せるようなファンが正しいのかもしれない。駄々をこね、いつまでもあの頃に戻ってくれと縋るような人間、もうファンですらないのかもしれない。

それでもわたしは背中なんて押せないしあったかもしれない未来を夢見ることをやめるなんてできない。戻れるならば戻ってほしい。

 

いい子のフリをするなんて、そんなのはぜったいに無理だ。

 

 

 

 

 単独公演をしたい、って言葉が、今でも呪縛のように心に鎖をかけている。その夢が叶うより先に、そのグループの輪は解かれ、ひとりは一般の者となり、ひとりは振付師となり、そして、わたしのすきなひとは、一足先に単独公演を行っている。

信じていた。別に理由とかなくて、でも理由とかないのに強気で同じ未来が見えていた8人を、わたしは信じていた。すえざわくんを通してはじめてジュニアを好きになったわたしは、ジャニーズジュニアって、こんなこと言っていいのかとさえ思った。明日すらわからない中で、そんな容易に期待させるようなこと、言っていいんだろうか。そんな驚きを吹き飛ばすみたいに彼らは笑って8人をわたしに約束してくれて、メンバーカラーまでたのしそうにたのしそうに決めていた。

 

好きになったタイミングがただただ悪かったなと思う。四季を二周戻したあの春じゃなきゃ、わたしは彼を好きにならなかったと思うけど、でもあの春からあと、8人が「funky8」の8人でステージに登ることはなかった。夏には分断されたし、その分断は、わたしが思うよりずっと深刻だった。すえざわくんとまとくんとこじゃくんはツアーバック、ほか5人が松竹座公演、in大阪。すえざわくんに仕事が無いわけではなかったが、5人と3人でおなじ仕事ができないのはどうしてだろうと思った。

 

2018年の年明けで絶望を見た。目の前で5と3を見せつけられて、心をボキボキに折られて、こうじくん担の当時のフォロワーに公演後なんて返事をしたやら覚えていない。ただわたしにとって、絶望を具現化したみたいなコンサートだった。楽しくなどなかった。分断に加えてすえざわくんは、マイクも持たせてもらえずステージの上の方でちっちゃい子達と一緒になって踊っていた。そのあと行ったツアーのバックについていたすえざわくんは、奇しくも全体では絶対に任せてもらえないセンターにいて、もう心がぐちゃぐちゃだった。直感的に、きっとわたしが望むものは見られないと思った。

 

3月に出たスキャンダルと、そのあとの謹慎の話を聞いて、すこしじゅんやくんを憎んだ。どうしてだ、5人の中に入れてもらえて、松竹座でもメインに近い役回りを張らせてもらえておいて、そんなつまらないことをするなと理不尽に怒った。いろんなことが許せなかった。

 

怒りも錆びついてきた10月。絶望が真意を伴ってわたしの微かにだけ残った希望を轢き殺していった。1年半信じていたものを、誌面にデカデカと載るじょうくんとおおはしくんの笑顔でズタズタにされるのを実感した。

帰宅してから2016年の少クラin大阪を見た。FOLLOWを踊る8人が強くて、つよくて、わたしの中じゃこんなにも最強なのに、それなのにどうしてこうなるんだって思った。屋良くんに、ゆうまくんに認めてもらえたこの8人じゃダメなのか。どうして、どうしてだ。なんで。答えが出ないまま布団に潜り込んで泣いた。わからなかった。誌面のふたりはやっぱり笑顔だった。なにもかも愛せないなと思った。1年と少し前はあんなにたのしかったのがうそみたいだった。

 

括りが完全に解かれてから、アイドル誌などでは6人だけで括りがもどるようになった。その6人を「funky」と呼ぶ人もいた。すえざわくんはまたマイクを持たせてもらえるようになったし、絶大な人気を認めてもらえるようにもなった。わたしの絶望を、チャンスだと思っているよ、と言った。

苦しかった。そんなふうに言う彼が好きでたまらないと同時に、もうすえざわくんは過去にできてしまえるんだなって思った。置いていかれているのはわたしだけだ。

funky6ってなんだよと思った。8じゃなきゃ成り立たないんじゃないのか。8じゃないのに成り立たせないでくれ。そんなに、そんなにもむごい形でわたしから8を奪わないでくれ、幕をひかないでくれ。1日を終えると堰を切ったように泣いてしまうことが多くなった。

 

また年が明けた。すえざわくんはグループをもらった。うれしかった。新しい居場所だ。わたしももしかしたら少しくらい救われるかもしれないと思った。終わりにしたいと思った。すえざわくんの新しい居場所を好きになりたい。もう過去にしたい。もう2016年のin大阪を縋るように見るのは最後にしようと思った。

 

春松竹のポスターに、2年ぶりにすえざわくんがいた。大きく載った大好きな顔に泣いた。すえざわくんにも、松竹座で居場所がある。

まとりくんがいなかった。わたしはまとくんをあきらめきれなかった。どうしていないんだって毎日思った。まとくんのきらきら笑顔が見たかった。まとくんの振り付けを楽しそうにおどる8人が見たかった。8として括られていなくても、それでも8人そろってほしかった。叶わなかった。

 

すえざわくんがグループ配属になってから初めて2016年のin大阪を見た。 FOLLOWを見た。まとりくんがいた。すえざわくんがいた。じょうくんもおおはしくんも、りちゃぴもこじゃくんもいまあさも同じ場所で踊っていた。久しぶりに涙が枯れるくらい泣いた。好きだったものが、すきなものがそこに明確にあった。かっこよかった。強かった。なにわ男子にも、Aぇ!groupにも絶対に負けないと思った。funky8が、わたしのなかでなにより強くて、無理だと思った。気づいてはいたけど亡霊確定だった。

 

そこからはもう諦めて過去の動画をいっぱい見た。好きだなあと思った。今のすえざわくんの居場所が嫌とかではなくて、あの頃のすえざわくんの居場所があんまりにも好きすぎる。

 

3月31日。じゅんやくんを囲んでみんなが泣いた。ないとわかりきっていたfunky8復活の兆しをいちばんにじゅんやくんが絶った。その日もin大阪を見た。じゅんやくんはキラキラしなやかに踊っていた。

 

4月11日。まとくんの最後の文章を読んだ。いちばん「最高にFunkyで愛に溢れていた」のは最後までまとくんだった。だいすきなまとくんにもまたひとつ希望を踏み殺されてしまった。その日もやっぱりin大阪を見た。このひとがつくる振付がいちばんかれらをかがやかせるなあって思った。まとくんには何回も安心させてもらったなあって思い出した。

 

すえざわくんは、これからも仲間だよって言った。過去ではなかった。今も、未来も、仲間だよって。

久しぶりに泣いた。

 

今日もin大阪を見ました。どうしてもすきです。忘れられません。ごめんなさい。

 

これからもわたしはこの8人じゃなきゃ心から愛せないと思います。身長がさして変わらない8人でどんぐりの背比べしているところがいとしかったり、ばっちりそろったダンスをあの狭いショータイムの空間でみせてくれたり、ただただふつうになかよしだったり、そういうところがこれからもだいすきです。 

 

すえざわくんの今の居場所、すごく素敵だと思っていて、その気持ちに嘘偽りなんてものはひとつもないんだけど、わたしのなかのすえざわくんは、あのときからずっと、ずっと白です。

 

これから先もわたしは過去に縋って生きていくことになりそうだけど、そんなひとファンって言わなくてもいいから、ただ赦してください。

 

funky8末澤誠也くん、林真鳥くん、古謝那伊留くん、今江大地くん、朝田淳弥くん、大橋和也くん、藤原丈一郎くん。funky8がだいすきです。あなた達の未来に幸ありますよう。

花ひらく、

どんなふうであれ、ひさびさに彼は生きているなーと思う瞬間に立ちあって、あーやっぱこの人だなあと思った。画面を通してしまったらだいぶ違うんだけど、わたしがすきなのはお家で都合よく切り取られたちっちゃな液晶を眺めることではなくて、粗削りでもなんでもいいから処理しきれないくらい彼のことだけ見つめる時間だなあと改めて思った。

もうすぐ好きになってから季節が一周する。彼も私もひとつ年を重ねた。涼さんはふわり、と花びらがのびをするみたいにきれいに笑う人になった。

前の春は、もうすこしあどけなく、幼く笑う人だった気がする。いつの間にそんなきれいな人になってしまったんだろうか。

 

17から18なんて、変わらないでいることの方が少ないのに、変わらずいてほしいと願ってしまうことの方が多くって、ずっとずっと子供でいてほしい、弱くあれというエゴが心のどこかでいつも顔をのぞかせている気がしている。仕方ないかなと思う。好きになったときの顔、忘れたくないし。

粗削りであればあるほどその粗さが愛しくなること。きれいに笑う涼さんを見て、そんな姿に心を打たれながらも、そうだなあ、例えば夏の記憶、涼さんのあの「未完成さ」に少しすがるみたいに自分のこの手を伸ばしてしまうのを実感した。どれだけダンスのテンポがみんなより早くたって、低めの音は少し安定しなくたって、それが愛おしかった。できないね、頑張ろうねって安心していた。

 

もう子供じゃないのかもしれない。大学に進学して、たぶんこれからもっと進路は増える。ひとりでできることだって増える。1人暮らしも始めたかもしれない。履修登録はできなくたって、講義を受けるようになる。好きになってからずっと追いかけてきた背中にある翼は、とっくのとうに大空にはばたけるくらい大きくなっているのかもしれない。

 

綺麗に笑う人になった。本当にそれが印象的だった。

 

いつだってまっすぐで素直な言葉も、ちょっぴりどころじゃなくてあほなところも、全部愛しくて、好きになったころからひとつも変わっていないなって思うけど、ただひとつ、きれいに笑うようになったんだ。本当に花開くように笑うようになった。目で見る涼さんがすべてだって思ってるんだけど、知らないうちにきれいな人になっていた。

努力のたまものだ、きっと。

ダンスがうまくなったね。歌も、表情がのるようになったんじゃないかな、声質生かした歌い方をするようになりましたね。ローラーもきっとうまくなっているんでしょう。ピアスもつけるようになって、髪を染めたって怒られる立場ではなくなったし、もう、もう子供だなんて勝手に守りたくなっちゃってる場合じゃないのかもしれません。

 

でも、今はまだもう少し、年下の可愛い子って思わせてほしい。きれいになった涼さんも愛しているけど、まだご飯に目をキラキラさせちゃうところとか、聞こえてきた単語を反芻してしまってえへへと笑ったりとか、ほら、髪染めたんだよねやばいよね~ってなんかしらんけどどこか他人事なところとか、そういうかわいさをかきあつめてよしよししちゃうけど、許してください。

 

 

大人になっていく様をこれからみられるのかと思うと、ちょっぴりだけ寂しくて、せつないけど、それ以上にすっごく楽しみにしているから、今のこの瞬間を目いっぱい愛しく大事にしたい。

 

いつだって今の涼さんがナンバーワンでだいすきなことには変わりないので、やっぱり好きなように生きてね。

 

 

あなたにお手紙書きましょう 井上瑞稀・橋本涼

 

はしもとくんを応援していると、気持ちがほかほかになることがおおい。それはひとえにはしもとくんの力であると思うと同時に、はしもとくんが愛する彼を取り巻く環境をわたしも愛せるからなのではないかなーってぼんやり感じている。愛する人と愛する「事」を共有できることはきっと当たり前なんかではなくて、それもやっぱり大切なことに対して素直で恥じない涼さんだからなんだとわたしは思う。わたしのすきなひとって、たぶんそういうひとだ。

 

瑞稀くんがそういう、「運命」をぶんなぐる「必然」とか、前を向くために必要な存在に涼さんを挙げたりとか、そういう……まっすぐで、そう、涼さんみたいな言い回しをするなんて、正直思っていなかった。どんなことを言うんだろうかとは思っていたけど、瑞稀くんは雑誌のインタビューでも涼さんのことをまっすぐ語ったりとかあんまりしていないイメージだったから、意外で、鍵のかかった心の奥をするり撫でられた気がした。インタビューあんまり読んでるわけではないので不確かなこと言ってますが、最近は瑞稀くん→涼さんの心情吐露みたいな、そういうのってあんまりなかった気がしたから……だからこのコーナー、身構えていたのかもしれない。瑞稀くんがどんなふうに何を言うのか、わたしにはわからなかったから。

瑞稀くんは優斗くんとなかよしだし、そやさくのこともかわいがっている(かわいがられている?)し、なにかエピソードを出す時には涼さんのことよりもほかの3人のことの方が多い気がして、一方で、涼さんは大事なところでは瑞稀くんの話をよくしている気がしている。そして瑞稀くんには、自分の行く先、つまり「縦」の話はするけど、現状5人でのつながり、「横」の話に言及することはそこまでないかな〜という印象を受けている。もちろん横に対して気持ちがないわけではないと思うし、口に出さないことは賢明な判断とも言えるから、賢いな聡いな、と思うわけだけど、涼さんがあんまりまっすぐことばにするから、ちょっと、たまに、瑞稀くんって「今」の涼さんのこと、どう思ってるのかなって、思ったりしていた。

 

瑞稀くん、涼さんのこと「頼れる」って思ってるんだなって、それを他のなんでもない、平面の雑誌の文章でもない、瑞稀くんの声にのせた彼の体温を纏ったことばでわたしにガッチンと届いてきて、収録なのに熱がバチンと今日のわたしの身体をグルグルと駆け巡ってどうしようかと思った。明け方の街に大きな涙混じりの声で叫びたくなっちゃったよ、「聞いたか、瑞稀くんってはしもとくんのこと大切に思ってるんだぞ」って。だいすきな涼さんがだいすきな瑞稀くんに愛されていること、信頼されていること、そのことがわたしにとってひどくひどくうれしかった。

 

涼さんから瑞稀くんへのことばは、今まで聞いてきたことそのまんまで、ただこれも涼さん自身の体温がぶわあってわたしに広がってくるあったかくてやわらかくてまっすぐなことばが、涼さん自身の声が電波と画面を通して突き刺さるみたいに飛んできて、もう、本当に勘弁してくれ〜……ってへなへなと蹲ってしまった。もうどうしたらいいかわからない。

涼さんのことばは、いつだって「はしみずの正解」だなあと、わたしはおもう。それはわたしが涼さんのことを過ぎるくらい信じているからかもしれないけど、雑誌を読んだときも、今回も、涼さんがくれるまっすぐで偽りのないことばは、彼らの正解だなあと思う。「いちばん信じている人は瑞稀」も正直相当こたえたけど、「相棒」って、ことばに、痺れて痺れて、わたしは……。涼さんのことばえらびは、彼自身だと思うからこそ、「運命共同体」も、「相棒」も、ぜんぶぜんぶ彼らを言い表すことばとしてドンピシャ100点はなまる大正解なのです。シンメというより、「相棒さん」。5人が好きということばをさんざっぱら強調しておいて、最後に「最高」ってまでつけてそんな言い方ないよ……。それはあんまりにも好きすぎるよ。

 

高校を卒業してしまった彼らがさびしくて、さびしくて、仕方がなかったのは、涼さんの言う通り背中合わせみたいに正反対なふたりを結びつける強固な糸をここで失ってしまうような気がしていたからっていうのも、たぶんあって、そんなのわたしのわがままでエゴで、子供でいてほしい弱くていてほしいと願ってしまう悪い癖なのは重々承知で、それでもさびしかった。いつまでもおなじ場所や同じ進路にいることが、イコール、おなじ未来を見ることだと勘違いしていることに気づきつつ、それを望んでしまっていた。

 

「これからもよろしく」とまるで俺らこれから先一緒にいるに決まってんじゃん、みたいな言い方されると、あんなHiHi Jets見せられてしまうと、わたしには「信じる」という道しか残されていないと鮮明に感じた。選択肢なんて初めからあるようでないようなものだ。感じた寂しさを打ち砕く熱が、そこにあった。HiHi Jets、それがわたしにとって至極幸せな道であることと引き換えにこれからの未来をぜんぶぜんぶ幸せにしてくれなくっちゃ許さないってひどい呪いをかけてしまうけど、許してほしい。

ローラーでスアーーーって出てきた時から最高が確定してしまっている猪狩さん、いつも通り耽美で精緻な笑みをたたえる作間くん、みんなを操って歌う瑞稀くん、曲中ですらどんどん魅力で溢れていく涼さん。みんな素敵で、かっこよくて、でもわたしは優斗くんがすっごくすっごくいい顔で、ハイハイジェッツポーズをしたことがなによりも刺さって抜けなかった。ことばにしない優斗くんの優しさと責任を感じつつすこしばかりの寂しさを感じたりしていた他担を殴るようないい顔だった。あれはHiHi Jetsの「正解」だ。5人とも最高で、最高で、これはもうHiHi Jetsが天下取るしかないなー!!!!

 

涼さんが愛するHiHi Jetsというグループも、瑞稀くんという必然な運命共同体の相棒も、これからもぜんぶぜんぶ、愛していきたい。

橋本涼さん、これはプロポーズなんですが、わたしは涼さんのファンになれて幸せです。愛しています。

「アイドル」で在り続けてくれる君へ

 

昨年の自分が書いた、この日に寄せたエントリを読みました。

 

アイドル14歳の神山智洋くんへ - 青の碧

 

この頃書いた言葉からいまも気持ちは変わっていなくて、昨年のあの日から今日まで、15年前のあの日から15年後の今日まで、わたしは愛する神山智洋くんというアイドルが誕生したこと、そしてその偶像が今もなお死んでいないことの双方に感謝していたいと思っています。

たぶんかみやまくんは、アイドルで生きる人。それってつまり、かみやまくんは自分の人生でお金をもらって生活をしているということなのではないか。言い換えれば自分の人生を換金価値のあるものにしないと生活を営めないということで、わたしだったら自分にそんな責任など負いたくないと思うので、やはり毎日流されながらでも、激流にのまれてしまっても、どんなかたちでもかみやまくんが「そこ」にいてくれることはかみやまくんの自身の莫大な努力の結晶にほかならないと思います。

 

なんのためにがんばってくれるんだろう。わたしは自分の単位のためですらそこまでがんばれない。堕落した人間だ。そういうわたしには、かみやまくんの努力の根源がわからない。好きになった頃から、今でも。

 

わたしはかみやまくんに幸せにしてもらっている、というよりは、勝手に幸せになっているという気持ちの方が強くて、ニアリーイコールではあるけど、線引きだけはしておきたいなと思う。いろんな人のしあわせを担って生きているかみやまくんには、わたしのしあわせひとつぶんなどたいしたことないのかもしれないけど、塵も積もればなんとやら、なのだ。ダスト マウンテンなのだ。

だから勝手に幸せにならせていただいてるわたしのしあわせは、かみやまくんがいないとまず始まりすらしなくて、でもかみやまくんがいるだけでも始まらなくて、つまりどこに行き着くかというとアイドルでいてくれることへの感謝である。

 

「変化し続けるアイドルでありたい」とか「残された半分はみんなを幸せにするためだ」とか「俺らは会いたい時に会える関係じゃない」とか、わたしの心のやわこいところをふと油断したときにかみやまくん自身の体温が乗り移ったみたいな言葉でふわりと撫でてくるかみやまくんが、わたしはだいすきでしかたないんですよ。かみやまくんはわかってるんだろうか、あなたのことが好きすぎて泣くしかない夜があるってこと、そんなオタクがあなたから遠く離れた地で生活を営んでいること。きっと知らないでいてほしい。知っていても知らないふりをしていてほしい。

 

かみやまくんがアイドルでいてくれる事は「辞めない」事の連続であると同時に、「続ける」という選択肢を取り続けているということであって、わたしは前者はもちろん後者のありがたみを易々と忘れてしまえるようなオタクではありたくない。だけどかみやまくんがアイドルでいてくれる事をいつまでも当たり前と思っていたい。永遠なんてないのはわかっていて、それでもわたしはかみやまくんに永遠を信じる。無責任なのはわかっている。だから年に2度か3度ほど、ありがとうとだいすきをここで叫ぶことを免罪符にさせてほしい。

 

かみやまくんの努力の根源がわたしみたいなオタクであれ、とは思わない。今日の晩ご飯のためでいい、その晩ご飯代のためでいい。お友達と遊ぶためでいいし、ゲームを買うためでいい。どんな理由でもいい。わたしからはその努力を「続けてくれる」という側面しか見えないから、なんだっていいのだ。あなたにずっと欺かれて生きていくから、だから、できる限りアイドルでいることをやめないでくれるとうれしいな。

 

かみやまくん、幸せですか?アイドルでやっててよかったって、1年で何度思えましたか?1度でも思えましたか?わたしはかみやまくんがアイドルでいてくれてよかったをかみやまくんに会うたびに更新して、もう全く手に負えないところまできていますよ。

かみやまくんは、オタクを幸せにすることがしあわせなんだろうか。もしそうならあまりにウィン・ウィンの関係だなあ、かみやまくんがしあわせならば、わたしはしあわせだから。

 

アイドル16歳のかみやまくんともしあわせのキャッチボールをしながら生きていけたなら、こんなにありがたくてあたたかくて、うれしいことはないですね。

 

神山智洋くん、入所15周年おめでとうございます。ありがとう。

切り裂かれては灯した未来は土砂降り

 

降りるとか降りないとかの話じゃないかなあって わたしはおもっている。傍から見てそうなのわかっているけど、わたしの中でそういうことにはなっていないので、これは「便宜上担降りと呼ばれる何か」でしかない。だけど、ひと区切りつけたいという気持ちに素直に行動するので、そこだけは「担降り」と変わらないかなと思う。

 

かみやまくんのことを元担だとかいう枠には、何がどう転んでも……天地がひっくり返ったって当てはめたくなくて、でも担当って呼ぶにはわたしは夢から覚めすぎたのかな〜と思う。

 

神山智洋くんという人をはじめて好きだと思ったときのことを今でも鮮明に覚えている。かみやまくんに初めて会いに行った時のこと、彼のパフォーマンスを見て腰を抜かしたこと、好きすぎて泣きながら夜を明かしたこと。ぜんぶわたしの細胞に織り込まれた情報みたいにずっとわたしの中にある。 たのしくていとしい時間だったのだ、わたしにとってのかみやまくんというひとは。

 

わたしはエンターテイメントについての浪費癖がひどいから、ひとりのひとを長く好きでいることに向いていない。保って1年、というところで、そんなわたしが2年半も好きでいられたのはひとえにかみやまくんがそれだけ魅力にあふれた人だったということでしかないなあと感じる。

かみやまくんにはいろんな感情を見せてもらった。好きで仕方ない人に会いに行くワクワク感もそうだし、知らない土地に降り立つ緊張感もそうだし、バスに揺られながらああわたしの目の前で起こっていた事はもしかして夢だったのかなと幻想のように感じる気持ちもそうで、かみやまくんを担当と呼んだ2年半はわたしの人生にいつだって「はじめて」をもたらし続けてきた。この先ずっと好きでいたい人に出会ったことならあったけど、この先ずっと好きなんだろうなとある種諦めに近いような確信をもったのはかみやまくんしかいない。たぶんこの先わたしが生きていく上でこんなことを感じるのはこの人だけなんだと思う。

ひとのダンスを見て腰を抜かすことなんて、後にも先にもかみやまくんだけにしか起こらない現象なんじゃないかと思う。こころの深層まで入り込んでくるみたいな歌声も、ギラギラした目つきも、パフォーマンスすべてがわたしのこころをとっ捕まえて離さない。にこにこして手を振っている姿がこれでもかというくらい好きだし、自分のファンかどうかしっかり見極めるところもすき。あの魔法の空間にいるときのかみやまくんの一挙一動はわたしにとって目がくらむくらいつよいひかりで、立ちくらみすらするほどのそれをあびると、わたしの身体をかたちづくる全部の細胞はこの人のことが好きだと全身全霊で叫ぶ。

 

わたしは元々オタク気質と呼ばれるそれを持っているから、きっとこれからも大して変わらないんだと思う。好きなものは好きなので、好きなものを好きと言って生きていこうと思う。同じ夢は見ていると思うし、これからも……これからもそうであればいいなとは思う。WESTやかみやまくんのこの先を願う気持ちは純であるし、そこに偽りなんてものは存在しようがないけれど、自分の気持ちの変化を認めないではいられないのがわたしなので、そういうことかな。「好き」のうしろに「だから」じゃなくって「だけど」が来るようになってしまったわたしは、ひとり少しだけ夢の輪っかから外れてしまったと思うから、外れてしまったことだけは認めようって思う。いつかどこかで見た、「好きの気持ちは無限だけど、時間やお金は有限」ってことば、何となく思い出してしまって、罪悪感なんてものはスパイスと呼ぶには不相応だから、わたしはそういうのを濾過してこれからもたのしくいたい。何より自分を認めることがたのしさに繋がるのかなと最近やっときづいたから。

 

WESTVとっても楽しかったなあ。たのしいなあ。WESTやかみやまくんが創る世界は本当に最高だから、これからもすこしずつそれを享受して、この先もWESTとにこにこできたらいいなあ。