青の碧

@kogsk_

未無虚空

 

わたしは小学校5年生の頃から嵐が好きで、オタクとしての自我が芽生えたのは中学生の頃だ。ジャニーズ・オタクでいることはわたしのなかでなんの不自然もなく成立していることで、特別にそこに対して何を思ったこともなかった。たぶん他人からどうこう思われたこともない。見た目とか ダンスとか うたとか そういうのの上っ面をなぞって アイスの溶けた部分から食べるみたいにして オタクをしてきた。それに疑問をもったことはなかった。

考えるのがにがてなわたしには、それでちょうどよく「美味しかった」というわけだ。それでおなじようにおなじように わたしは5年も10年もオタクをしてきた。

 

だから、だから?だからということばでぜんぶなしにしていいのかはしらないけど、わたしはこの人がどういう人なんだろうとか 自分はどういうふうにこのひとのことを捉えているんだろうとか そういうのを考えてこなかったから、いまもそれがにがて。

 

今年の春…名実伴ったのは夏なんだけど。そのくらいの頃から、ジャニーズジュニアの世界に足をポチャンと浸けたりしてみていて、いや足どころのはなしじゃないのはわかってるんだけど、思ったのは、まわりの人間が色々をことばにしたがるってことだ。洞察力のないわたしはこれも言われて気づいたんだけども。さておきジャニーズジュニアを応援する人は、みんなじゃないけど、結構な確率で、感情とか事実とか そういうのをことばにする。自担は思うにどんなひとで、どんなところがあって、自分はどういう人だから、こういうところが好き、みたいな。

見るたびに、いや、できねーなーっておもう。できない。うらやましいなあと思う。わたしにはそういうふうにことばにするという行為…というよりその前段階の「かんがえる」が身についてなさすぎて なんか うまくできないから できねーーって思うのと同時に すげーないいなーーっておもう。わたしは、涼さんのどこが好きかわからないし実際のところたぶん自分にわかろうとする気はあんまりないし知らない。好きなもんは好きだし きらいなもんはきらい。そこに理由なんてある?あるんだよ…ってなる。でもその理由は脳が足りないわたしにはわからないから結局できない。

受け取るものに対してもそう。受け取ってそれをどうこう言うのがむちゃくちゃにがてだ。どうこう言わなきゃいけないわけじゃない、のは、わかってるんだけど、ただ批判がにがてだなとおもう。わたしの性質として、悪いところが見えないというか 肯定することで自我を保っているというか…そこに対して考えとかないから これをあげますと言われても うんありがとう!え〜めっちゃいいじゃん!おわり。という感じ。授業を受けてその時間の最後に感想を書かなきゃいけないとかってなったときに、いや、何書けばいいんだよって思うのに似てるかもしれない。「かもしれない」だからわからないけど。

 

それらしいことばを何個か並べ立てて文章を書いてはみたけど うーん ちがうなとおもった。わたしのそれには中身がないというか。結局スカスカなまんま それこそ授業終わりに出す「興味深いと思った」を乱用した感想みたいな そのくらいのものにしかならなかった。思っていることではあるんだけど 他人の目を気にした安い文章だなーと思う。自分のそういうところが心底きらいだともおもう。公開してはじめて意味を持つような そこにしか意味を見いだせないような そういう文章な気がしていて。他人の目を気にして、評価が欲しくて書く文章の陳腐さとか 間抜けさとか そういうのがところどころに散りばめられているわたしのそれは本当に酷いと思うんだけど、わたしがそもそも文章を書くきっかけになったのってそういう気持ちだから、一生治らないビョーキ、みたいなものなのかもしれない。そりゃあ考えてもないのに 文章を書いたところでなんにも変わりはしない。当たり前だ。当たり前がひどく虚しい。そうしてまたこの記事も公開する。たぶんわたしは人に伝えるために書くことも 自分に伝えるために書くこともできなくて 誰かにとっての唯一無二を作る文章をうむことはできないんだとおもう。ほうら、他人からの目を気にしている。誰かに好かれようとするわたしの媚びへつらった文章がわたしはだいきらいだ。

 

自分の感情に向き合うのも、それをこねくりまわすのも、どっちもにがてだ。きっとわたしは知ったようなふりも顔もできる。その擬態能力は、たぶん自分には備わっていて、でもわたしはこれから先もずっとそんなふうにしてオタクをするのかと思うとむなしさというか 嫌気というか よくわからないけどマイナスに強く帯電した気持ちが鉛みたいになって心の重石ができてしまう、みたいだ。

全肯定がダメとか言ってるわけじゃないし、わたしは全肯定型オタクって楽しいと思うから、全然いいなーと思うし 自分がその形態をとっていることにむちゃくちゃ嫌な気持ちがあったりするわけじゃないんだけど、ただわたしの全肯定は「選んだ」ものじゃなくて、結果として「なってしまった」ものだなと思う。否定ができないから肯定をしている。それだけだなと思うから、ときどきなんか なんかわからないけど情けなくなる。情けないってどういう感情だよって思うけど、でもあの気持ちは情けないってことばがいちばん近くにいると思う。否定しなきゃいけないわけじゃない。知ってる。というかわたしは、否定したいんじゃなくて批判がしたいだけなんだ。自分を持っているふりをしたくて。自分をもたないわたしは見栄をはりたいだけで…あ~~~書いていて気づいてしまった…見栄をはりたいだけなんだな…。批判をすることがステータスじゃないけど わたしよりひとつ上の段にいる人達がすることのようなきがしていて、それがうらやましくて 結局まねっこで生きている人間がわたしという生き物なんだなと 今気づいてしまった。真似をした先には虚無しかないのを知っていて また真似をして 空を切って、そうやって生きているのがわたしなんだな。

 

書きたい文章が書けるようになりたい。それはニアリーイコール自我を持ちたいってことなんだと思う たぶんね。話し言葉で書いたらフラットになりすぎちゃったな。