切り裂かれては灯した未来は土砂降り

 

降りるとか降りないとかの話じゃないかなあって わたしはおもっている。傍から見てそうなのわかっているけど、わたしの中でそういうことにはなっていないので、これは「便宜上担降りと呼ばれる何か」でしかない。だけど、ひと区切りつけたいという気持ちに素直に行動するので、そこだけは「担降り」と変わらないかなと思う。

 

かみやまくんのことを元担だとかいう枠には、何がどう転んでも……天地がひっくり返ったって当てはめたくなくて、でも担当って呼ぶにはわたしは夢から覚めすぎたのかな〜と思う。

 

神山智洋くんという人をはじめて好きだと思ったときのことを今でも鮮明に覚えている。かみやまくんに初めて会いに行った時のこと、彼のパフォーマンスを見て腰を抜かしたこと、好きすぎて泣きながら夜を明かしたこと。ぜんぶわたしの細胞に織り込まれた情報みたいにずっとわたしの中にある。 たのしくていとしい時間だったのだ、わたしにとってのかみやまくんというひとは。

 

わたしはエンターテイメントについての浪費癖がひどいから、ひとりのひとを長く好きでいることに向いていない。保って1年、というところで、そんなわたしが2年半も好きでいられたのはひとえにかみやまくんがそれだけ魅力にあふれた人だったということでしかないなあと感じる。

かみやまくんにはいろんな感情を見せてもらった。好きで仕方ない人に会いに行くワクワク感もそうだし、知らない土地に降り立つ緊張感もそうだし、バスに揺られながらああわたしの目の前で起こっていた事はもしかして夢だったのかなと幻想のように感じる気持ちもそうで、かみやまくんを担当と呼んだ2年半はわたしの人生にいつだって「はじめて」をもたらし続けてきた。この先ずっと好きでいたい人に出会ったことならあったけど、この先ずっと好きなんだろうなとある種諦めに近いような確信をもったのはかみやまくんしかいない。たぶんこの先わたしが生きていく上でこんなことを感じるのはこの人だけなんだと思う。

ひとのダンスを見て腰を抜かすことなんて、後にも先にもかみやまくんだけにしか起こらない現象なんじゃないかと思う。こころの深層まで入り込んでくるみたいな歌声も、ギラギラした目つきも、パフォーマンスすべてがわたしのこころをとっ捕まえて離さない。にこにこして手を振っている姿がこれでもかというくらい好きだし、自分のファンかどうかしっかり見極めるところもすき。あの魔法の空間にいるときのかみやまくんの一挙一動はわたしにとって目がくらむくらいつよいひかりで、立ちくらみすらするほどのそれをあびると、わたしの身体をかたちづくる全部の細胞はこの人のことが好きだと全身全霊で叫ぶ。

 

わたしは元々オタク気質と呼ばれるそれを持っているから、きっとこれからも大して変わらないんだと思う。好きなものは好きなので、好きなものを好きと言って生きていこうと思う。同じ夢は見ていると思うし、これからも……これからもそうであればいいなとは思う。WESTやかみやまくんのこの先を願う気持ちは純であるし、そこに偽りなんてものは存在しようがないけれど、自分の気持ちの変化を認めないではいられないのがわたしなので、そういうことかな。「好き」のうしろに「だから」じゃなくって「だけど」が来るようになってしまったわたしは、ひとり少しだけ夢の輪っかから外れてしまったと思うから、外れてしまったことだけは認めようって思う。いつかどこかで見た、「好きの気持ちは無限だけど、時間やお金は有限」ってことば、何となく思い出してしまって、罪悪感なんてものはスパイスと呼ぶには不相応だから、わたしはそういうのを濾過してこれからもたのしくいたい。何より自分を認めることがたのしさに繋がるのかなと最近やっときづいたから。

 

WESTVとっても楽しかったなあ。たのしいなあ。WESTやかみやまくんが創る世界は本当に最高だから、これからもすこしずつそれを享受して、この先もWESTとにこにこできたらいいなあ。