主人公シンドローム

 

わたしは、「主人公」を纏うセンターがたぶん、とてもにがてだ。

 

センター。それ自体が苦手なわけじゃあない、と自分では思う。9人組をすきだったとき、わたしは赤色の涙ボクロくんのことがすごくすごくすきだった。いまも好きだ。とっても可憐で かわいくて きらきらで そんなひかりの裏で 計り知れないほどの重圧と戦っていたわけで、それがデビュー10年を間近に控えた頃、ようやくすこしその小さくてつよい背中から降りたのかと思うと、いつでもたまらないきもちになる。ずっとずっと、戦っていてくれたんだと思うと 本当にこのひとはこのグループが大事なんだと思うと 涙がむぎゅうと押し出されてしまうくらい そのくらい思い入れがある、とおもう。いつだって真面目で実直で グループのためならと自己犠牲をいとわない人で きっとたくさんひとりで悩んで傷ついてきて そういうセンターがわたしはすきだ。ここに分類していいのかはわからないけど セクシーな5人組のまんなかに立つ人のこと 彼もまた赤なわけだけど その人のことをどこか「特別」に位置づけてしまうのは、そういうセンターが好きだからだと思う。あっちゃんと呼ばれた彼女がその当時すごくすきだったのも、幼心ながらそこに共通するなにかを感じ取っていたからかもなあと 今考えてみれば思う。グループの象徴を担うひとがわたしは好きなんだろう。このあたりのはなしは友人からの受け売りみたいなものなので、そこだけことわらせてほしい。

ハイハイジェッツでいうなら、先述したセンター像に当てはまるのはやっぱり赤を背負うそのひとなんだとおもう。それだからこそ、わたしはたぶん瑞稀くんのことが一定ラインをこえてすきで、それだからこそ、彼が真ん中にくることにわたしのこころは異議を唱えない。彼がグループのために自己犠牲を図っているかと言われるとそれはわからないんだけど、尊先よろしくセンターを張っている気がする。

 

じゃあ高橋優斗くんだったら異議を唱えるのかというと、ちょっとわからない。ただ、優斗くんがセンターにいることに、なにかしらくやしさみたいなものを感じているのは事実として認めざるを得ないところだ。いつの回だったか…比較的最近だったけど、少クラのシェイクイットアップを見たとき 優斗くんが立つセンターを見たとき 明確に負けたと思った。思わされた。優斗くんがセンターにいるハイハイジェッツがあんまりつよくて、あんまりに優斗くんが主人公だったから。くやしいとおもっていたんだとおもう。でもこのひとがひっぱる物語が見てみたいとこころの奥底のわくわくがわきあがることを抑えきれなくて、余計にわたしは勝てないと思った。涼さんには、そんなふうに思わせることはたぶん、たぶんだけど、できない。

瑞稀くんのセンターを見た時には感じないことを、優斗くんのセンターを見た時には感じる。みじゅはきっと、センターにはなれるけど主人公ではない。そんな気がする。なにが優斗くんを主人公たらしめるのかわたしにはわからないけど、彼は運命とか天命とかいうやつを背負ってるのかもしれなくて、それはハイハイジェッツのほかの4人だれも持っていないものなんだとおもう。そういう彼がセンターにたつのは順当に考えれば当たり前かもしれなくて、でもやっぱりそんなの、と突っかかってしまうわたしもいる。言ってしまえば 一介のオタクでありながらわたしは、涼さんを借りてないものねだりをして悔しがっているってことなのかなと 的外れになりかねない憶測をしたりする。なにかおっきなそれを背負うひとが、心底うらやましいんだと思う。わたしの主人公を張っているはしもとくんが、ハイハイジェッツの主人公でないのはなんでだ?と凄むくらいの勢いで…そんなことを思っている。結局わたしは、すきなひとが真ん中に立たないことを 立てないことを 諦めきれないだけなのかなあ。諦められる日、諦める日、そんな日ってくるんだろうか。わたしのまんなかにいるひとが世界のまんなかでないことを理解して受け入れる日なんてくるんだろうか。みじゅがセンターを張ることをなんてことない気持ちで見ていられるのは、好きだとふつうに言えるのは、彼らがシンメトリーを組んでいるからではなくて、みじゅはみじゅだけの主人公でありそこに嫉妬みたいなものはないから、っておもう。優斗くんがたつセンターは あんまり強くてあんまりかっこよくて あんまりにハイハイジェッツの「はじまり」だから それを背負う優斗くんがわたしはうらやましくて いっそのこと優斗くん担になっていたら…って思わないでもないけど、でもわたしの運命の手綱を握るのはほかのだれでもない 橋本涼くんだ。はしもとくん以外のだれにだってわたしの運命の手綱を握らせたくはないから はしもとくんにだけ握っていてほしいから そこがわたしの気持ちの中でグリグリ、ジリジリ、と摩擦を起こしている。優斗くんを見ていると、摩擦係数の数値は最大値を観測してしまうから、だからわたしは彼みたいなセンターが苦手なんだと思う。それでいて、にがて、と、すき、と、うらやましい、はぜんぶおんなじ紙の上に並んでいる。根底にあるのはいつだって猛烈な嫉妬だ。

 

やまださんや勝利くんいうセンター。瑞稀くんがここに含まれるとなるとちょっと定義としてわからなくなってくるけど、もしかしてそこに一貫してあるものというのは、「同情」なのかもしれないと、ふと思う。自分を切り捨てるそのひとたちはどこか「かわいそう」だから、それは引き金としてじゅうぶんで、好きになるのかもしれない。そして彼らはたぶん、センターであれど主人公ではない。9人なら9人、5人なら5人、それぞれのひとに主人公を語り名乗るチャンスもストーリーもある。

対して、優斗くんや、たとえば重岡くん。そういうセンターはどうかと言われると、かわいそうって思うことがないなとわたしは考える。自分を切り捨てて真ん中に立ちなどしないわけで、そのまんまたかはしくんとして、しげおかくんとして、センターに立つ。主人公然として、真ん中で道を切り拓く。推されだからそうなんじゃなくて、そうだからこそ推されなんだと思う。ほかの人を主人公に据えることを許さないのだ、その性質が。主人公として他者の追随をゆるさない。

 

さっきからずっと言ってるけど、単純にわたしはそれがうらやましいだけなんだと思う。センターを好きにならないわたしの好みと、自分の好きな人がいつでも真ん中で愛されていてほしいというわがままが自分の中で合致しないだけで、ほかのだれもわるくなくて、ただただわたしの問題なんだろう。わたしの中心は世界の中心であれよとひどい自己中を発揮しているだけなんだ、たぶん。「だから」で片付けていいのかわからないけど 優斗くんのこと、ちゃんと好きになりたい。でもちゃんと好きになれなくて ずっと逃げている。優斗くんに踏み込むのは たぶんわたしには向いていないし、と 高橋優斗くんのことを考えたくないわたしはそっぽを向きまくっているけど、いつか一周してゆうぴーすきだなあってハイハイジェッツを好きになり始めた頃とおんなじように言えるようになればいいと思う。いや ゆうぴーのこと好きなんだけど …でもなんかまだ悔しいから もしCDとか出しちゃったりする時には ゆうぴーがセンターにいることを誇らしく思っていたい。みんなの青春背負っちゃうゆうぴーを、好きになっていたいな。

 

ゆうぴーがにがてなのは、わたしがすきなおともだちがゆうぴーに素敵な文章を書かしめられているってのもたぶんあって、わたしははしもとくんでそんな素敵なこと書けないから、やっぱり結局は全部嫉妬なのだ。みにくいな、わたしは。顔も性格も醜形を極めたわたしだけど、それでもわたしなりにゆうぴーを等身大でみることができる日が来たらいいなあ。